Month: 12月 2009

下北沢で先輩と

このコワモテのお兄さんは、大学の先輩にあたる作曲家のYさん。
数年ぶりの再会を下北沢のmarusan foodsにて祝いました。
わたし:じゃこと山椒のオムライス
Yさん:石焼き和風ナシゴレン
でした。
素直な味でおいしかったです。オムライス。
Yさんはポップスのアレンジャーや作家でもあり、実験音楽の音楽家でもあり、学校の先生でもあり、と、世間的には「N足のわらじを履いてる」などと言われそうな方。僕のようにふらふらしている音楽家にとって親近感のわく先輩で、折にふれ連絡をとっては考えを交換してきました。本日も今の音楽業界に起きている変化や、来るべき新しい時代の音楽家としてどういうスタンスをとっていくのがいいのか、長々と会話してしまいました。
午後の長話、学生時代に大浦食堂(ローカルですみません)でこんな時間をよく持っていました。
でも、時代は着実に変わっているのです。
IMG_0443.jpg

“*ハロー、プラネット。”について考える。

(しばらく前に書いたものですが、なぜか投稿しておりませんでした。。)
“*ハロー、プラネット。”について考える。
http://www.youtube.com/watch?v=_dlyIyfd9s0&feature=related
(オリジナルはニコニコ動画ですが)
ニコ動に大量にアップされているボーカロイド楽曲は、そのほとんどが冗長なオタクの独り言を聴かされてるみたいなものだけれども、そのうちの何パーセントかは、明らかに違っている。一線を越えている。その好例が、この*ハロー、プラネットだ。
ボーカロイドが世に出て、愛好家たちがいつしか見いだした共通のテーマは”人間でない「わたし」の歌う歌”というものだった。「歌う機械」という夢は、人間を模倣することをやめた。
“*ハロー、プラネット。”は、終末を迎えた世界でミクが一向に芽に出ない植木鉢を抱えて(頭にのせて)旅をする物語である。僕はこの作品を見ながら、カート・ヴォネガットが「スラプスティック」で描いた絵本のような終末のことを思い出した。ハイホー。そして、ボーカロイドが歌うことでSF的な筋立てがリアリティを持つというからくりに気がついたとき、愕然としたのだった。(特に、ミクがスフィンクスのなぞなぞに答えられない場面は秀逸。)
ファミコン世代のオプティミズムといって批判する人、あるいは感覚的に受け入れないという大人たちもいるだろう。でも、僕たちはこうやって先に進むしかできないのも事実なのだ。終末論もギリシャ神話も、学校で習う前にRPGで知ってしまった世代がもう存在している。
これからは、私たちが「歌う機械」のように歌おうとするのだろう。