Month: 11月 2005

宿題を出された日

今日、知人のNさんがミーティングで僕の部屋に遊びにきてくれた折、なにげなく宿題を残して去っていった。
宿題の中身はベーレントの著作の一部分に関わるもので、”「西洋音楽の歴史における和声の発達、およびそれにともなう「協和」「不協和」概念の変遷」を聴覚で理解できるように整理すること”だったりする。
「協和」「不協和」は相対的なものであって、その概念は時代とともにある方向性をもって変遷してきたということを、はっきりわかるように提示してほしいということなのだった。
ああ、ちょっと小難しい書き方だ。
もう少し簡単に書けるはずだと思うのだけど。
例えば、
「人間の耳はどんどん複雑さになれていき、より高度の複雑さをもった秩序を求めるようになる。」
と言いかえれば、少しわかりやすくなりますか。。。?
CD棚からあまり数の多くないクラシック系の音源を探しながら、Nさんのための解説なのに、僕自身がこの宿題を楽しみはじめていることに気がつく。そして、2日前にとあるパーティで知り合った女の子と交わしたバッハとドビュッシーに関する会話を思い出したりしている。バッハの和声構造とドビュッシーのそれは本質的に違う。旦那さんにするなら、バッハ85パーセントくらいの人がよい、とその子はちょっと酔っぱらいながら話していたのだった。
そうそう、
Nさんは僕の本棚から萩尾望都の「百億」を見つけて目を細めていた。
通じてる。ここでも何かが。
(もちろん)続きます。

パラレル

僕たちはしばしば過去をふりかえる。
することができたはずのことを、選ぶことができたはずの選択肢を、そして、手に入れることができたはずのものを思って、しばし立ち止まる。
並行宇宙(parallel world)という考え方をご存知だろうか?
僕たちが選ばなかった可能性の世界がどこか別の次元で無数に存在している、という理論。
その考え方をするなら、人生は一本の線ではなくて木の枝が分岐していくような形をしているはずだ。そして、世界は無数の木がからみあった網のようなものだと考えてもいいだろう。
無数にいる「私」という考えは、過去を振り返って選ばなかった可能性について思いをはせているときの自分に、ある慰めを与えてくれるものかもしない。なぜなら、選ばなかった可能性は、その無数にいる「私」の誰かがリアライズしてくれているからだ。だから、「私」は安心して、今の自分でいればよいはずだ。
あるいは。
例えば、今日僕が何の理由もなく調子が悪かったとして、何となく気分がすぐれなかったとして、それが、網の彼方にいる僕からの何かのシグナルかもしれないと考えることもできるだろう。
それなら、引き受けなくっちゃね。
ほんとうに、他人事ではないのだから。
空気が冷えてくる、頬のあたりが引き締まる、季節のとばぐちに。

Spout!

ときどき、代々木公園に体を動かしにいくことがありまして。。
ときどき、こういう馬鹿なこともやってみたくなるわけでして。。
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