ミスター現代音楽
ミスター現代音楽
シュトックハウゼンの講演とコンサートに行った。
チケットをプレゼントしてもらったので、2晩連続で。
“リヒト/ビルダー”は緻密に構成されたまさに「いわゆる現代音楽」のお手本のような音楽だった。20年前にはこういった響きが前衛音楽の必然だったのだろう。50年代60年代にヨーロッパで作曲を志すということは、現代の日本にいる僕らには想像もつかないような類いのシリアスな問いかけがあったはずで、それに対してシュトックハウゼンは一貫した態度で答えを出し続けている。この作品はその最新版ということか。際限なくリハーサルをしたとのことだが、演奏の精度もとてつもなく高いものだった。
「少年の歌」「テレムジーク」は懐かしさとともに、少し新鮮な印象を僕に与えてくれた。昨今の「音響系」などと呼ばれる音楽のひ弱さに比べて、これらの音楽の強度は確かなものに思えたのだ。
でも。
どちらの音楽も、「今」、僕自身がこころの底から欲しいものではなかった。
過去に憧れを感じた対象ではあるのだけど、「今」の自分がいるのは同じ場所ではない。
そんなことを思っていた。
終演後、巨匠はなんどもなんどもカーテンコール(というか、客席におりては舞台にあがり、を繰り返していたのだけど)を受けた。大喝采を聞きながら、僕はちょっと複雑な違和感を覚えていた。
なぜなら、拍手喝采を送るひとたちは、音楽ではなくて、「ミスター現代音楽」への賛辞を送っているように見えたからだ。偉大な「現代音楽神:シュトックハウゼン」に向かって。
90年代後半以降、クラブミュージックの一部、アドバンスドミュージックなどと呼ばれる範疇のアーティストが、しきりに現代音楽の作曲家へのオマージュを表明するようになった。それは、ライヒであり、ケージであり、ピエール・アンリであり、そして、シュトックハウゼンだった。それらは一種のルーツ探しのファッションだった。いや、ファッションとしてのルーツ探し、というべきか。
そして、シュトックハウゼンはふたたびカリスマになった。ヨーロッパのクラシック音楽の延長としての「前衛音楽」の洗礼を受け、それに心中しようという世代と、自分が大好きなミュージシャンが尊敬しているという理由でその偉大さを鵜呑みにする若い世代、そのどちらにおいても。
「シュトックハウゼン」の公平にして正当な評価が埋もれていることをあの拍手喝采が物語っているように僕には思えたのだ。
さて、僕自身はどこにむかえばよいのだろうか。そんなことを考えながら帰路についた。