昨夜、急に昭和初期の日本語が読みたくなって本棚を物色。
横光利一がいいかな、と思って短編集を選んだ。
「春は馬車に乗って」、「微笑」、「機械」。
どれも素晴らしい。
横光も川端も、実は短編によいものがある、と思ってる。
そうだ、いきさつを書かなくちゃ。
ネットで、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」のことを調べてたんだ。
なぜかというと、今年の夏休みはイギリスにでもいこうかと思っていたからで、、そこから、
→水村美苗「本格小説」(「嵐が丘」を下敷きにしている)
→水村氏の問題意識でもある英語スタンダードな社会への批判、日本語の文学の弱体化
→ああ、そういえばちゃんとした日本語読む機会が少なくなったなあ、
→冒頭につながる。
と、こういうわけ。
ネットで情報を漁っていると、気がつくと当初の行動と全く別のところにいたりする。
ときにはこういう夜もいい。だけど、「よい日本語の小説を読む」という行為は、「勝ち組」を目指すことに忙しいこの社会のなかで「役にたたないこと」として隅に追いやられていくばかりなのだろう。グローバル化の代償はこんなところにもある。
スイトピーが届く場面は、深くえぐられるように、美しい。
春は馬車に乗って