New Year!
また新しい年を迎えることができました。
今年もまた、この惑星の公転周期一回分、およそ31536000秒を、
秒速1秒のスピードで歩いていくのです。
(アルキキルコトガデキルデショウカ・デキルトイイデスネ)
でも、
どこに向かって、でしょうか?
すべてが闇に溶け込んでゆくはずなのに。
なぜ、でしょうか?
2006年1月2日。
一ノ瀬響 -From the silence, Into the silence-
また新しい年を迎えることができました。
今年もまた、この惑星の公転周期一回分、およそ31536000秒を、
秒速1秒のスピードで歩いていくのです。
(アルキキルコトガデキルデショウカ・デキルトイイデスネ)
でも、
どこに向かって、でしょうか?
すべてが闇に溶け込んでゆくはずなのに。
なぜ、でしょうか?
2006年1月2日。
木津茂理さん(http://www.shigeri.jp/)のライブを聴きに、
浅草のギャラリーエフ(http://www.gallery-ef.com/)へ。
江戸時代(慶応4/1868年)に建てられた土蔵を改装したギャラリーは、
響きもよく、とても素敵なところだった。
20人ほどのお客さんでいっぱいになった蔵の中、そのかすかなで上品な残響を感じながら、インティメイトな音楽とお話を聴く、とても贅沢な時間だった。もちろんノンPA。
木津さんは唄い、お三味線を弾き、太鼓や酒樽までも(!)たたいてしまう才媛なのだけど、実は僕は生のライブを聴いたのははじめてのこと。
「つるとかめ」の活動のCDを聴いたときにも思ったのだけど、この人の唄は、なぜか痛い。具体的に体のどこかを切られるような、そういうフィジカルな痛みがある。
決して暗い声ではない、むしろ明るく開放的な声で唄う。
にもかかわらず「痛み」を感じる。そして、今日僕はふと、その「痛み」は「悼み」と言い換えてもいいのではないか、と思った。何曲か歌ってくれた子守唄が特に印象深かったのだけど、それも、優しさと痛み(悼み)が同居していたように思う。
唄と唄の合間に、それらの唄への思いや経験を話してくれる。
お話が一段落して唄にうつるとき、表情が一瞬のうちに変化する。笑顔を形作っていたはずの口がいつのまにか唄うための口に変わっている。短い時間のグラデーション。
‥‥‥‥
Leonard Bernsteinの”young people’s concerts”のDVDを入手した。
中学生のころ、バーンスタインの「音楽のよろこび」という本が我が家にあって、
子供ながらに僕はその本がとてもお気に入りだった。
なかでも、「転調」という概念を説明する部分。アメリカ国歌を題材にとりバーンスタインがそれを次々と転調させていく、その手際の鮮やかさに感激したものだった。
“young people’s concerts”も、「音楽のよろこび」同様、バーンスタインが若い聴衆に向かって音楽の可能性や仕組みを語りかけるTVプログラムだ。こちらは、ニューヨークフィルとバーンスタインの黄金セットで。
昨年にDVD化され、すぐに日本語版がでるだろうと待っていたのだけど、一向に出る気配がないので、とうとうアメリカから買ってしまったという次第。
8枚組、かなりのボリュームです。
初回のテーマ”what does music mean?”は、音楽の本質にわかりやすく迫っていて感動的ですらあった。
“No matter what stories people tell you about what music means, forget them.”
“Music never about things. Music just is .
どんな物語が音楽の意味するものとして語られたとしても、それを忘れてください。
音楽とは「何か」についての説明ではない。音楽は、それ自体に意味があるのです。
わ。こんないい加減な訳でいいのかしら?
ともかく、音楽が「物語」や「絵」を描写したものではない、それらはエキストラだ、作曲家がそういっただけなのだよ、ということをバーンスタインは強調している。ムソログスキー「展覧会の絵」の「キエフの大きな門」は「ミシシッピ川の雄大な流れ」といってもみんな納得するでしょう?と。
それなら、音楽の意味はどこにあるのか?それは、「エモーション」を喚起することなんだ、しかも音楽独自のやり方で、、、、とこのように議論は続くのだ。
すごく本質的な議論。
少し冷静に言うなら、この番組全体について「クラシック音楽」の枠組みのなかでのみ音楽教育を展開していいのか、という指摘も当然あるだろう。(初回からウェーベルンが登場していたりもするのだけど)。だけど、この初回の「音楽の意味」をめぐる議論は、その枠を超える可能性をもったものであることは間違いない。
今日、知人のNさんがミーティングで僕の部屋に遊びにきてくれた折、なにげなく宿題を残して去っていった。
宿題の中身はベーレントの著作の一部分に関わるもので、”「西洋音楽の歴史における和声の発達、およびそれにともなう「協和」「不協和」概念の変遷」を聴覚で理解できるように整理すること”だったりする。
「協和」「不協和」は相対的なものであって、その概念は時代とともにある方向性をもって変遷してきたということを、はっきりわかるように提示してほしいということなのだった。
ああ、ちょっと小難しい書き方だ。
もう少し簡単に書けるはずだと思うのだけど。
例えば、
「人間の耳はどんどん複雑さになれていき、より高度の複雑さをもった秩序を求めるようになる。」
と言いかえれば、少しわかりやすくなりますか。。。?
CD棚からあまり数の多くないクラシック系の音源を探しながら、Nさんのための解説なのに、僕自身がこの宿題を楽しみはじめていることに気がつく。そして、2日前にとあるパーティで知り合った女の子と交わしたバッハとドビュッシーに関する会話を思い出したりしている。バッハの和声構造とドビュッシーのそれは本質的に違う。旦那さんにするなら、バッハ85パーセントくらいの人がよい、とその子はちょっと酔っぱらいながら話していたのだった。
そうそう、
Nさんは僕の本棚から萩尾望都の「百億」を見つけて目を細めていた。
通じてる。ここでも何かが。
(もちろん)続きます。